城下町散策の際にはふるさと亀岡ガイドの会をご利用ください
山陰線の生みの親といわれる田中源太郎翁の生家。煉瓦造りの和洋折衷の明治建築と名匠植治(七代目小川治兵衛)作の優雅な庭園が見事です。
織田信長の命をうけて丹波攻略にあたった明智光秀はその拠点として丹波亀山城を築きました。姿を残している濠と石垣の一部から当時の姿を偲ぶことができます。最初は「亀宝城」と名づけられていましたが、後に天守の連なっている丘が亀の形に似ていたことから「亀山城」と称するようになったといわれていて光秀滅亡後の慶長15年(1610)、藤堂高虎の指揮で天下普請が行われ、近世城郭としての完成をみたものです。
亀岡の町中には昔の城下町のたたずまいが今も残っています。また美味しい水を使った醤油屋や造り酒屋などもあります。
亀山城主小早川秀秋が早世した自分の子どもの菩提をとむらうために建てたと言われています。境内の墓地には織田信長の墓とされる五輪塔があります。
また、この寺の角には毘沙門堂があり、市指定文化財の毘沙門天像が安置されています。毎年6月の第1日曜日に信長公忌と共に毘沙門天祭が行われています。
鎌倉時代 市指定文化財。
もと国分寺にあったものを明智光秀が亀山城築城にあたり守護神として二の丸に安置。その後の城主、小早川秀秋が聖隣寺建立の際、守護として移したとされる。
寛永6年(1629)、当時の亀山城主「松平成重」の時に母の「久松」のために再建され久松寺と称していたが、そののち菅沼定芳が城主のときに「宗堅寺」と改めました。この寺の本尊は観世音菩薩であるが、薬師堂には一尺八寸の薬師座像が祀られていて、妊婦が乳の出を願うと霊験あらたかであるといわれています。
亀山城の外堀に築かれたお土居の跡が公園内に残されています。
源頼政が朝廷のヌエ退治の恩賞として矢田の庄を受けました。頼政は地蔵菩薩のおかげと守り本尊として深く信心しました。頼政が平家討伐に失敗し宇治で自害しましたが、その後家来が頼政の菩提を弔うためにお堂を建て守り本尊を安置したのがこの矢の根地蔵であると伝えられています。
亀山城の外堀。この地の湧水は質量とも豊かで、昔から「洗い場」と称して、生活用水として炊事・洗濯などに利用されています。
ここ、光忠寺は丹波亀山藩主「形原松平」氏の菩提寺で境内の松平家墓地には、歴代の墓石が祀られています。又、城内の殿様のはかない恋物語の伝説で知られる「糸繰姫血染めの敷石」などがあり、また、牡丹の花の綺麗なお寺としても知られています。
亀岡の歴史・文化等に関する常設展・企画展・特別展等を開催。
【開館時間】午前9時 ~ 午後5時 (入館は、午後4時30分まで)
【休館日】 月曜日全日・年末年始(12月28日 ~ 1日4日)
資料提供:ふるさと亀岡ガイドの会