明智光秀(あけちみつひで)は、織田信長(おだのぶなが)の家臣としては異色の武将で、もとは足利義昭(あしかがよしあき)に仕えていましたが、その経歴を見込まれ信長に仕えるようになりました。
光秀は信長の期待に応え、近江坂本城、丹波亀山城主となり、知将としての実力をいかんなく発揮。羽柴秀吉(はしばひでよし・後の豊臣秀吉)とともに最有力家臣の一人として活躍しました。
特に、天正3年(1575)から信長の命を受けて着手した丹波攻略は、近畿で最後まで反信長勢力が抵抗していた地域で、光秀による同6年(1578)頃からの丹波亀山城の築城・整備で一気に進展し、同7年(1579)に完了しました。
翌年の天正8年(1580)、光秀は信長から丹波を領国として与えられ、まさに絶頂の時を迎えます。
天正10年(1582)5月27日、光秀は丹波・亀山城(現亀岡市)から今の「明智越え(あけちごえ)」を通り、水尾を経て京都を見下ろせる愛宕(あたご)山に向かいます。山上には火伏せの神として有名な愛宕権現太郎坊を祭神とする愛宕神社が鎮座(ちんざ)しています。
主君信長から中国出陣の命令を受けた光秀が参籠(さんろう)したのは、同社の本地仏で軍神として信仰を集めた勝軍地蔵への戦勝祈願のためだったのですが、光秀には迷いの心がありました。光秀は社前で何度もくじを引いたといい、まさにゆれ動く胸中がうかがえます。
翌日28日、里村紹巴(さとむらじょうは)などと催した連歌(れんが)会での光秀の発句は、「時は今、あめが下しる五月かな」。大事を前にした心境を歌ったものともいわれています。光秀の決断の時。歴史を大きく動かす運命の日が迫ってきます。
6月2日未明、桂川(かつらがわ)をわたった光秀は、「敵は本能寺にあり」と号令を発し、決行の時を迎えます。天下統一を目前にした信長は、本能寺で迫り来る光秀の軍勢を前に、熱炎の中でその生涯を閉じます。
なぜ光秀が信長を討ったのか、その動機の真相は現在でも明らかではありません。当時は、従来の権力・権威を否定する激しい政争の風潮を意味する「下剋(げこく)上」の時代。光秀もその渦中にあり、主君信長への忠誠と反感の狭間に苦しみ、政治的手腕の相違に悩んだと思われます。その深さが、野望説・怨恨説・前途不安説・朝廷誘導説・足利義昭黒幕説などの諸説となっているのかもしれません。
いずれにしても、本能寺の変は天下統一という巨大な歴史の歯車の動きと連動し、その後の日本史に多大な影響を与えた最大で最後の「下剋上」であったといえます。