谷性寺(こくしょうじ)境内に首塚があります。小栗栖で光秀を介錯(かいしゃく)した溝尾庄兵衛(みぞおしょうべい)は、その首を当時の不動明王のそばに葬るよう近臣に託したといいます。
光秀はこの不動明王を厚く尊信し、本能寺の変の時「一殺多生の剣を授け給え」と誓願し、本懐を遂げたといわれています。
松尾芭蕉(まつおばしょう)の句に「月さびよ 明智が妻の咄(はな)しせん」というのがあります。
元禄2年(1689)、伊勢の島崎又玄(ゆうげん)方に滞在した時、又玄の若い妻が何一つ逆らうことなく細心親切に世話してくれたことに感じ入った芭蕉が、旅の御礼に、光秀が仕官先もなく困窮していた頃、急な来客をもてなすため自分の黒髪を切って金に換え、主人の面目を保ったという話をしたもので、貞節な妻・ひろ子()を表した忠実として残っています。
永禄6年(1563)光秀とひろ子()の娘として生まれます。名を「玉子(たまこ)」、洗礼名を「ガラシャ」といいます。16歳の時、信長の媒酌で細川忠興(ただおき)と結婚。絶世の美女で聡明な人でした。
20歳の時、父・光秀の本能寺の変が起こり、父の罪悪を一身に負い謹慎し、暗い年月を送ります。その間人知れず天主教会に出入りし、信者となり、慈善事業などを手がけたといいます。慶長5年(1600)、夫の言葉に従い石田三成の命に背いたため攻められ、37歳の生涯を閉じます。