豊臣秀勝(小吉)の次に丹波亀山城主となったのが、豊臣秀俊(後の小早川秀秋)です。秀俊は豊臣秀吉の正室・於祢(寧)の甥であり、天正19年ごろに入封したとみられます。
後年の史料によると、秀俊の時代の亀山では、城郭と城下町の整備が行われています。まず城郭については、諸大名を動員して三重の天守を五重に改め、本丸・二ノ丸・三ノ丸を整備したとあります。城下町もこの時、すでに形成されていた町並みが改まり、境界を正したとされます。これらの記述は、江戸時代の史料に度々見られます。
秀俊はこのほかに、城下の大圓寺・専念寺・栖隣庵・寿仙庵・長徳寺へ米二石を寄進するよう家臣の渡辺勘右衛門尉へ命じています。いわゆる亀山の「五ケ寺」です。
同時代の史料が乏しいため、具体的なことは分かりませんが、秀俊による城郭と城下町の整備が諸大名を動員して大規模に行われたとする点は注目されます。天下人・豊臣秀吉の一門の城であり、朝廷と聚楽第のある首都・京都を護る拠点城郭としての丹波亀山城の位置を考える上で、新たな史料の発見が待たれます。
文禄4年(1595年)、豊臣秀俊の後任として前田玄以が丹波亀山城主となります。玄以は、京都の政務や豊臣家年寄(五奉行)を務めた人物です。
慶長5年(1600年)、天下を二分する関ケ原の戦いが勃発します。戦いの結果は、皆さんもご存知のとおり、徳川家康の東軍が勝利します。以後、天下の実権は豊臣家から次第に徳川家へと移ります。そして、政権交代の波は丹波亀山城にも及びます。
関ケ原の戦いの二年後、玄以の跡を継いだ茂勝は丹波八上城(篠山市)へ移封されます。これに伴い、丹波亀山城は徳川家の直轄となり、 代官の北条氏勝が在城しました。
同年、惣構として、城下の周囲を取り囲む堀(惣町裏郭堀・惣堀)と土居が建設されました。堀普請に罪人を使役したという伝承から、「科怠堀」の別名が残されています。次いで慶長11年(1606年)には、内堀が整備されます。
当時の亀山の人々の目に、この堀と土居は「政権交代の象徴」と写ったのではないでしょうか。時代とともに、丹波亀山城は豊臣の城から徳川の城へと変わっていきます。
慶長14年(1609年)、徳川家譜代の家臣である岡部長盛が丹波亀山城の城主となります。同じ年、将軍・徳川秀忠は諸大名に対して、篠山での新規築城を命令し、篠山城が築かれます。翌年閏2月、新たに二つの城を築く命令が発せられます。一つは将軍の弟で大御所・徳川家康の9男である義直の居城・名古屋城、もう一つは丹波亀山城です。
丹波亀山城の天下普請(御手伝普請)に参加した大名の中に、日向国財部(現在の宮崎県児湯郡高鍋町)城主・秋月種長がいます。当時の様子を記した『秋月家譜』には、「同(慶長)15年、将軍家、丹波亀山御築城」とあります。
これまで連載してきた通り、丹波亀山城は明智光秀の築城(第1期)に始まり、豊臣期の拡張(第2期)と、関ヶ原の戦後に惣堀・内堀の建設が行われました。第3期目の徳川家による築城は、5層の層塔型天守を築くなど、その内容は丹波亀山城を大きく変貌させる大規模なものでした。
今年は、慶長15年(1610)の天下普請から400年目にあたります。
慶長15年(1610年)閏2月、徳川幕府の命令で丹波亀山城の天下普請が始まりました。普請には、丹波亀山城主の岡部長盛を始め、前回紹介した秋月種長など南九州の大名や山陰地方の大名が助役大名として参加しました。同時期に、名古屋城でも天下普請が行われていましたので、これを務めた大名以外が丹波亀山城の天下普請を担当したようです。藤堂高虎もその1人です。
現在、丹波亀山城跡にある宗教法人大本の敷地内に、天下普請の痕跡が残されています。石垣を観察すると、目線ほどの高さに写真のような記号を見ることができます。これは、「刻印」と呼ばれるもので、大名が自家の石材や持ち場を間違わないように、石に刻み付けたものです。
丹波亀山城と同じく、天下普請で築城された篠山城や大坂城でも刻印の入った石が確認されていることから、ほかの城の刻印と比較することで、丹波亀山城の天下普請に加わった大名家がもっと分かると思われます。