明智光秀は、天正7年(1579年)秋に丹波平定をほぼ完了します。これに並行して丹波亀山城の普請も続けられ、戦の合間を縫って「土普請」(堀や土塁の工事)などが行われました。
光秀の主君・織田信長もこの間に勢力を拡大し、その範囲は現在の関東・北陸・中国・四国の各地方に及んでいました。光秀は近畿の政務を担当していましたので、指揮下の軍勢も近畿各地に駐留していました。備中国(現、岡山県西部)で毛利氏と対峙する羽柴(後の豊臣)秀吉から救援を請われた際に、光秀が出陣したのはそのためです。
天正10年(1582年)5月27日、光秀は明智越から愛宕社へ参詣し、「ときは今」で知られる歌を詠みました。そして、6月1日夜、丹波亀山城を出発した軍勢は、老ノ坂から沓掛を通過し、桂川を渡ります。翌2日早朝には、信長の宿所の本能寺と嫡子・信忠の二条新御所を囲み、これを討ちます。有名な「本能寺の変」です。
その後、京都を掌握した光秀ですが、予想以上の早さで「大返し」を果たした秀吉と山崎で戦い敗れます。坂本城へ向かう途中、光秀は小栗栖(京都市伏見区)で敢え無い最期を迎えますが、このとき丹波亀山城も秀吉方の堀尾可晴(吉晴)に没収されました。宮前町の谷性寺には、安政2年(1855年)に建立された光秀の首塚があります。
織田信長と明智光秀の没後、織田家では遺領の分配が話し合われ、丹波国は羽柴(後の豊臣)秀吉の支配と決まりました。秀吉は、まず堀尾可晴(吉晴)を丹波亀山城へ遣わし、次いで城主に養子の秀勝(織田信長の4男、通称・於次)を据え、自らもたびたび亀山を訪れます。居城である大坂城の築城に際しては、建築資材を確保するため大堰川(保津川)で筏流しを行う保津の筏士の諸役を免除するなど、秀吉は光秀亡き後の丹波の支配を着実に進めていきました。
羽柴秀勝の時代、丹波亀山城では御殿の作事が行われています。天正12年(1584年)9月のことです。また、秀勝の婚儀を祝いに亀山を訪れた公家・吉田兼見の日記(『兼見卿記』)には、「町屋」へ滞在したことが記されています。これが、亀山城下町に関する史料上の初見です。堀尾氏の時に近隣の村から民を集め、城下町を造ったとする史料や、秀勝の時代に「十三町出来」とする史料もあることから、当時の亀山には城下町が形成されていたとみられます。
東竪町の聖隣寺には、秀勝が実父である信長を弔うために建立した石塔が境内の一角に建っています。光秀ゆかりの地である亀山に、信長の供養塔が建ち、それを建立したのが秀吉の養子・秀勝とは、天下の趨勢、時代の流れを感じさせます。
羽柴秀勝(於次(おつぎ))に次いで丹波亀山城主となったのが、豊臣秀勝(小吉(こきち))です。前の秀勝と同名で、秀吉が姉の子を養子にしたものです。彼の兄は、後に秀吉から関白職を譲られた豊臣秀次です。
秀勝が城主の頃の丹波亀山城や城下町に関する資料は乏しく、詳しいことは分かっていませんが、亀山領内では土地の面積を調査する検地が行われています。また当時、秀吉は天下統一事業を進める一方、朝廷から豊臣姓と関白職を賜り、政庁・聚楽第(じゅらくだい)を禁裏御所の西方に位置する内野に築城しました。同じ時期、秀吉は本拠地の大坂城も築城中でしたので、大量の材木が必要でした。
先代・秀勝の時代、すでに秀吉から大堰川(保津川)の筏士へ諸役免除の朱印状が与えられていますが、秀勝のころにも同様の朱印状が数回下されています。丹波亀山城は、大堰川の筏流しを管理する上でも重要な位置にありました。
かつて、大堰川では秋から春先にかけて筏流しが盛んに行われていました。丹波の山々から産出される木材と、保津や山本の筏士たちが担った筏流しが、天下人の居城や京都・大坂の町を支えたと言っても過言ではないでしょう。