青葉繁る5月の連休、亀岡では恒例の「亀岡光秀まつり」が行われます。
祭りの主人公である明智光秀(?~1582年)は、織田信長の配下の武将として丹波を平定し、後に本能寺の変で信長を討った人物として知られていますが、皆さんは、光秀と亀岡との関係をご存知でしょうか。
光秀が丹波に入ったのは、天正3年(1575年)のことです。光秀は、丹波攻略の拠点となる城郭を新たに築きますが、このとき配下の国人(地元の武士)に宛てた書状の中で、「亀山」の語が用いられています。丹波亀山城のことです。亀岡[明治2年(1869年)に亀山から改称]にとって光秀は、町の礎を築いた「産みの親」と言えるでしょう。
光秀は、本能寺の変の直後に行われた山崎の合戦で羽柴(豊臣)秀吉に敗れ、この世を去りますが、光秀の築いた丹波亀山城は、その後、秀吉や徳川家康という2人の天下人に注目され、城郭と城下町の整備が行われます。
特に、慶長15年(1610年)の改修は大規模なもので、5層の大天守を始め城郭の大部分が築かれました。本年は、この築城から400年目の記念すべき年にあたります。
天正3年(1575年)、明智光秀は織田信長の命令を受けて丹波に侵攻します。旧暦の5月ごろ(新暦では6月ごろ)とされています。当時の丹波では、国人達がそれぞれに城郭を構え、そこを拠点に周辺部を治めていました。余部町の余部城(丸岡城)跡もその1つです。
余部城跡は、曽我谷川の左岸(西側)段丘上に位置します。現在は、西岸寺の門前に城跡を示す石碑が建ち、小字「古城」・「古城浦」といった地名が残っています。当時、街道は城の北側を通り、周囲には宝蔵寺などの寺院や集落がありました。
15世紀後半の応仁・文明の乱に関する史料の中で、余部城が確認されます。光秀が丹波に侵攻したときには、福井貞政が居城としていました。光秀は、余部城に使者を遣わし臣従を勧めますが、貞政はこれを受け入れず開戦に至ります。余部城攻めでは、明智次(治)右衛門が戦功により光秀から感状と脇差を与えられています。
その後、光秀はこの余部城を拠点とします。江戸時代の記録によれば、この城には櫓・土蔵などの施設や堀が築かれ、その遺構は承応3年(1654年)時点でも残っていたようです。
しかし、光秀は新しい時代の到来を領民に知らせるため、近藤秀政の居館のある荒塚山へ新たな城郭を築きます。それが丹波亀山城です。
天正4年(1576年)、丹波平定中の明智光秀は、多紀郡(現、篠山市)八上城主・波多野秀治の謀反により、一時撤退します。その後、光秀は余部城にかわる丹波支配の拠点として、荒塚山にて築城を行います。天正5年ごろのことです。
それでは、光秀による丹波亀山城普請(工事)に関する史料から、当時の様子を見てみましょう。光秀は、配下の国人を普請に動員しました。国人達は、作業を行う人夫の手配から鋤・鍬・畚など道具の用意まですべてを行います。
中には、普請の担当が終わるとすぐに、大坂の石山本願寺攻めに向かう者もいました。国人も大変です。このころは、丹波攻略の途中であり、織田信長も勢力拡大の最中でしたので、丹波亀山城は短期間で造り上げられたようです。
丹波の人々も驚くほどの早さで行われた築城ですが、これには理由がありました。それは、周辺の寺院や神社から柱・扉といった部材や石材を築城資材として徴発し、職人や人夫も大人数を動員したためです。
丹波亀山城の築かれた荒塚山では、頂上部を削って平らにしたり、埋め立てたりして城地が整備され、石垣が築かれました。城の施設としては、城郭と家臣の屋敷を囲う「惣掘」が構築されたとみられます。
また、三重の天守の存在を記す資料もありますが、実像はほとんどが謎に包まれています。後年に「明智門」と呼ばれる門の築かれた二ノ丸付近が、光秀の丹波亀山城の場所と推定されます。